mako watanabe    ***   like the ocean we share, we are one in the same   ***               動物関連の記事を選びたい方は、カテゴリーの <ペット問題><@仕事> <動物福祉><動物関連イベント> からご覧ください。
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今日は暦の啓蟄。
春になって、土の中から虫が這い出てくる日らしい。

毎年、このころになると宝犬もとを思い出す。
もとがベランダの日溜まりで寝そべるようになると「我が家の啓蟄」と言っていたから。





一緒に暮らした犬たちは、どの子も特別。
どの子も大事。
どの子もかわいくてかわいくて、唯一無二の宝。

その中でも、一番不幸な過去を背負っていたのが、もとかな。
なんといっても「ペットショップの売れ残り」で、理由は「ルックスに難あり」とのことだったから。

ステンレスの狭いケージの中で、誰からも欲しがられないまま大人になることを、どんなふうに感じていたろう。
隣の犬が、どんどん売れていき、自分が取り残されることを。

初めてもとを抱いたとき、大きさに比べて頼りないほど軽かった。
トイレを覚えられず、食糞があり、手こずった。
リードをつけたら、ぐるぐるまわったり、左右へひっぱったりと、なかなか真っすぐ歩けなかった。
すべてが生まれて初めてのことなのだから、しょうがない。

おとなしくて、いつも先住犬のあとに遠慮しつつ控えているような、本当に手がかからない子。
今まで甘えることも、遊んでもらうこともなかったのだから、思いきりわがままになってもいいのに。

あるとき、犬たちを連れて知人の家に泊まりがけで出かけたことがあった。
夜になり、和室に用意された布団で寝ようとすると、犬たちは当然ふかふかなそこを陣取る。

家主がそれを見て、
「いいなあ、いっぴきくらい私のところに来てよぉ〜」
すると、もとが、彼女のあとについて別室へ行った。
彼女は大喜び。

翌日、もとは絶不調となり、血便まであって地元の獣医師の診断を受けた。
曰く「神経性の大腸炎でしょう」

淋しい思いや悲しい思いをたくさんしてきたから、もとは優しい。
優しいもとと一緒だから、他の宝犬の介護もがんばれた。

もとと見た最後の桜を思い出す。
肌寒い、薄曇りの中を、痩せた体を抱いて歩いた並木道を思い出す。
かつては3頭と、風を切って歩いていたのにと、せつなさでいっぱいになりながら空を見上げた。





あんな幸せ、もうないのだなと思う。
別の幸せがいくつ訪れても、あの子たちと一緒の、あのころの幸せはもうない。

ほぼ毎日、東京都の収容動物情報を見ている。
誰からも欲しがられない犬たちの姿は、初めて会ったころのもとに重なる。

もっちゃんに会いたい
寒ぅい……
まさしく11月下旬というこの空気。

冷え性の私の強い味方は、これ。



お腹と背中と、ときには(今日もだけど)両膝や足首にも貼る。
「蒸気温熱パワーがじ〜んわり深部まで温まる」と、昨年『わんにゃんウォーカー』編集長に貰ってからすっかり必需品だ。

伸縮するようになってバージョンアップしたし、今年は早くも全身に貼り付けてしまいそうな勢い。
(ホカロンスーツ?)
だって一カ所が温まると気持ち良くなるけど、それ以外の冷えが気になるんだもの。

そうそう、土曜日は家庭犬インストラクターの山本央子さんがユーロスペースまで来てくれました。



久しぶりに一緒に食事をし、あとから飯田さんも加わってゆっくり喋りました。
彼女のマシンガントークは健在なり。

クータが1歳になったとき、私からのバースディプレゼントが、なかさんとのレッスンでした。
それが今や7歳だものね。
「うわっ、おやじ〜」なんて言われたわ。

近いうちにクータのことも久々に様子見してくれることを約束し……
こんなものをもらっちゃた。



犬の鯛焼きだって!
こうやって出されたら、間違いなく食べますね。
かわいい!
おみやげ用に買わねば。

ついでにアップ。



別の日に別の方から届いた、心のこもったプレゼント、お手製です。
クータをつくってくれたのですって。
これもかっわいい!
あの日から一ヶ月。
現地では先月25日で、日本は26日だった。
ヒトミちゃんからの一報に文字通り固まって、改めて慄然としたのは一日過ぎてから。

michael が私の中でどんな存在だったかは以前に書いたので、控えます。
今は自由になった魂が安らいでいることを祈りたい。

でもでも、やはりもったいなかった……。
一時はノーベル平和賞候補と目されたことがあったけれど、それもいけただろうと思う。
もっと実践的な平和活動も社会貢献もできたし、結果を出したと思う。

彼の本質を理解して支える人が、メディアやプレスのコントロールなど巧くできたらよかったのにな。
そして本人がノーマルに近い生活ができていたら。

この世の人でなくなっても尚、外見の変貌や奇行(うそも多いのに)ばかりが取り上げられちゃって……
いろいろ雑誌の特集号が出ていて、若いカップルがそれをめくりながら「このころの顔は、まだアリだ」なんて話すのが聞こえてきた。

ぐうっっと悲しくなり、一冊だけ持ってレジに向かった。
ハーブ・リッツ撮影の表紙。




  

クータにおめでとうメールをたくさんいただきました。
どうもありがとうございました。
これからお返事書きますね。

コメント欄にメッセージいただいた、たかはし大地君と熊谷若葉ちゃんは奇しくも同年代。
長寿国日本の名にかけて、幸せな長生きしようねっ!
私の涙に価値はない。
すぐ泣くからだ。
昔から涙腺がゆるゆるで、映画の予告編や短いニュース映像だけでしっかり泣く。

そんなだから、本気で悲しいときは相当なことになる。
夕方くらいまで泣いていて鼻が詰まったままベッドに入ると、鼻呼吸ができなくて眠れない。
これがつらい。

おまけにしつこい性格らしく、いつまでもめそめそする。
外を歩いているときや、キッチンでキャベツを刻んでいるとき、ぽっと開いた心の隙間を涙がぐうっと満たしてゆく。

宝犬たちが亡くなってしばらくは、そういう時間を忍ぶ。
これはもう、頭を低くして自分の上を時間が過ぎるのを待つしかないから。

そうこうするうちに、大抵やせている。
普段は努力のダイエットだが、一番効果的なのは悲しみだと思う。

先日、はたと思ってヘルスメーターに乗ったら2キロほど減っていた。
これは宝犬たちのときの平均値。






一昨日は幻想的な月夜だった。
暗い空に銀色の丸い月が浮かんで、雲は強風に運ばれてぐんぐん流れる。
ベランダに出てはしばらく空を見上げ、パソコンに戻って葬列を見つめた。

深夜12時前からネット配信が終わる朝5時ころまで、まんじりともせずに見てた。
ときどき、波のような滂沱にのまれて。

マイケルは特別。
子どものころから大好きで、歌詞を知りたくて辞書を引き、発音をまねて歌った。
だから私にとってマイケルとビートルズは英語の先生だ。

そのころ、銀座にイエナという古ぼけた洋書屋があった。
二階に置いてある輸入のティーンズ雑誌を、よく立ち読みした。

当時で一冊、たしか500円から1000円近くするから、よっぽど「!!!」という写真が載っていない限りは、お小遣いではなかなか買えなかったのだ。
輸入雑誌の、ぺらぺらの材質や匂いを思い出す。

今みたいにインターネットもない時代。
FENというラジオの英語放送局と、土曜日夜の"American top 40"という番組が唯一、海外アーティストの最新情報を得る場だった時代だ。

テレビで「ザ・ベストヒットUSA」がスタートして、ようやくマイケルの動く姿が見られるようになる。
でも毎週必ずではないし、我が家にはビデオがなかったから、決して見逃すものかと放送日は真剣に見入ったものだ。

あのころのビデオクリップも出演コマーシャルも、今はyoutubeですぐ検索できるので便利な世の中だ。
頑張ってテレビに張り付き大奮闘したのは、ついこの間の気がするのに。

大人になって私の初仕事はNHKでの、たしかディオンヌ・ワーウィックのコンサート特番の字幕スーパーづくり。
家にはまだビデオがなくて、叔父の家で画面をチェックしながらの作業だった。

叔父たちは、私がそんな仕事をしていることに少し驚いて訊ねた。
「どこで英語を習っていたの?」
「マイケルに教わった」と、答えた。
だって事実だから。

その後、仕事でロス滞在中に具合が悪くなって訪れた病院が、少し前にマイケルが撮影中の事故で運ばれたところだった。
それを知って愕然とした勢いで体調も何もぶっ飛び、周囲から冷ややかな視線を浴びせられたことがある。
(つまり、そこへ行きたいがための仮病ではないかと)

マイケルの来日公演が行われたとき、六本木の今はなきWAVEビルに縦2メートル近くのパネルが何枚か展示された。
裏から手を回して、5枚をゲット。
そこまではよかったが、保管に苦労したっけ。


ここ数年は本業よりもゴシップやスキャンダルを耳にすることが多かった。
そうして、たくさんの誤解と悪意のでっちあげに、どんどん鎧を厚くせざるを得なかったのだと思う。

少しずつ薬が増え、体はゆっくりと蝕まれていったのだろう。
すべて「たら、れば」になってしまうけれど、たった一人でも心底親身に彼を案じ、支え、守り、信頼し合える相手が常に身近にいてくれたらと思う。
今回のようにツアーのブランクを空けなければ……などと、未練たっぷりにしつこく考えてしまう。

純粋で、シャイで、きれいなものが好きだった。
地球上の、人を苦しめるあらゆるものを取り去りたいと願っていた。
実際マイケルの歌には、さまざまな社会的メッセージがこめられている。

Michael Jackson として光り輝いてなくたっていい。
年齢なりにお腹がぽっこり出ちゃったり、髪が薄くなったりしてもいい。
生きていてほしかった。
ごくありふれた、のんびりした、平和な、穏やかな幸せに浸って、この同じ世界で同じ時を、もっと生きていてほしかった。

先月26日の朝からいろいろなことを思い出すにつけ、自分でも驚くほど悲しくて、涙が止まらなかった。
マイケルと共にあった時間。
あのころの私との別れでもあるからなのかもしれない。

you deserve a big star
友だちは、ありがたい。



カズがお見舞いに来てくれた。
BABBIのチョコレートアイスクリームを持って。
うーん、食欲なくても、これは食べてしまうよねえ。
お高いのに、ありがと。

とにかく今週末だけは乗り切らなくては……と思っていたところ、西山ゆう子獣医師@L.Aからメールが届いた。

曰く、
「ま、私は、さだまさしが死んだら、多分、相当落ち込むだろうな。。。
自分の病院閉めて、日本に飛んでいって、葬式に献花するでしょうね。」

えーっ……そんなぁ……
いや、ファンなのは知ってるし、握手したって狂喜乱舞したのも知ってるけど……
……ちょっと一緒にされるのは……

しかし、このメールに微妙に笑って少し元気が出た。
ゆう子さんとユタのシェルターを訪問するときには、マイケルのお墓参りに付き合わせるんだ。

……お墓だって……
かなしい



miss you much
昨日の午前中、ヒトミちゃんからメール。
それを読んで慌てて電話して、二人でしばし絶句。

ジョン・レノンのときも衝撃的だったけど、マイケルはジャクソン5時代から紛れもなく私のリアルタイムのアイドルだったので、よりショック。
あのころの思い出が、いなくなっちゃった。

忘れもしない後楽園球場のコンサートには、親友の名木田恵子さん(キャンディ・キャンディの原作者@水木杏子のペンネーム)と一緒に行った。

あーーー
思い出すことがいっぱい
今夜はそれを書こうと思ったのだけど、せつなくなっちゃったぁ。

テレビをつけるとマイケルが映り、お店に入ればラジオや有線で流れてるという状況が、あと数日は続くんでしょうか……。

ある意味、いろいろなことからやっと解放されて自由になったと信じたい。
でもやっぱり、どんな顔になっちゃっても生きていてほしかった。





my heart's gone with you
昨日、6月24日は田中裕子ちゃんの命日でした。



彼女は私が『捨て犬を救う街』の上梓に合わせて開いたホームページの、ごく初期の読者のお一人です。
毎日のように書き込みしてくださるのですが、そのコメントがいつも元気で前向きで可愛くて、たくさんのファンがいました。

彼女は強い意志でセンターでのボランティアを始め、そこに保護されていたレトリーバーのベイを家族に迎えます。
ベイは、高齢者が手放したやんちゃな犬でした。

その犬を助けようとして、彼女は若い命を落としました。
ベイは裕子ちゃんに二度も助けられたのです。
二度目は、命がけで。

私は自分を責めました。
私との出会いがなければ、こんなことにならなかったのではないかと。
そんなとき、ある方が言ってくださった言葉です。

・・・・・・

本というのは、読む人が感動して初めて生命を吹き込まれるのではないか。
そこにある響きを感じ取るかどうか……音叉のようなものかもしれない。
裕子さんは、眞子さんの本を読む前から同じ思いを抱いていたと思う。

・・・・・・

実は裕子さんが亡くなる少し前から私の掲示板は荒らされていて、疲弊してしばらく閉鎖を決めたところでした。
しかし同じ響きを感じ取る人がいる限り、それから彼女の思いを引き継ぐ意味でも、継続する責任があると思いました。

『捨て犬を救う街』は、そういう人々の強い気持ちが書かせてくれた一冊なのですから。
これが、10年間掲示板で読者の方々とのやり取りを続けてこられた理由です。

諸事情により、こうしてブログメインになってしまったけれど、私の気持ちは変わりません。
昨日ようやく設置した掲示板は、今までと異なるスタイルながら<裕子メモリアル>として、今まで通りにご利用いただければと思います。

それにしても……未だに「生きていたら」と、何かにつけて考えてしまう。
彼女なら、きっと人気ブロガーになって、書籍化されたに違いありません。

以下は、裕子ちゃんが亡くなったあと、HP上で皆さんへ向けて綴った文章です。
彼女のこと、彼女の「野望」を一人でも多くのみなさんに知っていただきたくて、ここに掲載いたします。




田中裕子さんとの出逢いは、私のHPの掲示板です。
1999年暮れ『捨て犬を救う街』の出版にあわせてつくったHPですが、本当に初期から書き込みくださった一人でした。
いつも明るくて、前向きで、彼女の登場が楽しみでしたし、救いでした。

このエピソードをご存じの方も多いですが、彼女はあるときからぷっつりと書き込まなくなり、かなり時間が経過してから久々に訪れたときのタイトルが「野望」でした。
その内容には、誰もが本当に驚かされました。

たった一人で地元、滋賀県のセンターに掛けあい、なんと譲渡用の子犬のシャンプーをするボランティアの仕事をゲットしたというではないですか。
そこには、こう記されていました。
 
・・・・・・

殺処分される、すべての子を救いたいけど、お金も土地も権力もない私にはとても無理なので、せめて最後にあの子たちを勇気づけてあげたいです。

おいしいものを、お腹いっぱい食べさせてあげたい。
優しく撫でて、ブラッシングをしてあげたい。
ほんのひとときでも、幸せを感じて貰いたい。

そして、ごめんね……と力一杯抱きしめて、今度生まれてくるときには必ず天寿を全うできる、そんな優しい社会にしているからね、と約束したいです。

・・・・・・


泣けました。
センターという場所は、なかなか個人が足を運べるところではありません。
それを自分一人で、頑張った。
その勇気に、心底感動しました。

『捨て犬……』のあと次作をと出版社から依頼されたとき、私は是非会いたい人がいると申し出ました。
その経緯を話すと「行ってきてください」と、本の企画が五分で通りました。
こんなに話がスムースに進むことって、まずありません。

すぐにセンターに連絡を取り、確か2000年の7月末の日曜日に、滋賀県の近江八幡駅前で裕子さんにお目にかかりました。

彼女は愛車「カレラ号」で迎えに来てくれました。
初対面なのに、懐かしい人。
はにかんだ笑顔でつつんでくれるような、幼なじみに会ったような、そんな感じにさせてくれる人でした。

センターでは内部を一緒に周り、彼女のお仕事風景も見せていただきました。
幼い子犬たちをあやしながら、慣れた手つきで手早くシャンプーをします。

彼女は慣れていても、子犬は違います。
ステンレスの浴槽の中で精一杯の抵抗をしますから、数頭が綺麗になったころには彼女も頭から水をかぶったようにびしょぬれでした。

その他に、子犬と里親希望者がふれあう広場のお掃除などもしていたようです。
大変な作業だったと思います。

それに若い彼女が毎週日曜日の午後、数時間を取られるのは、続けてゆくにはかなりの負担ではないかと私は思いました。
そのことを言うと、こんな返事が返ってきました。

自分がしたいことを、ずっと探していた。
眞子さんの本に出会って、それがはっきりした。
子犬のシャンプーは大好きなのです、ご心配なく。

裕子さんのことは『小さな命を救う人々』に記しました。
原稿が出来て校正をお願いしたら、一カ所だけ、ごく遠慮がちな訂正がありました。

私が彼女の言い方を借りて「イケている」と書いたのを「イケてる」であるのだがと。
どうやら「イケている」だと、私はかなり遅れていて恥ずかしい思いをするところだったらしいです。

『小さな命……』を上梓後の取材を受けた際、本文の冒頭にある裕子さんの「野望」について話すことがあったのですが、多くのインタビュアーが涙を浮かべたことを、よく覚えています。

共同通信社の取材では先方からのたっての願いで、裕子さんのお仕事中の姿も紙面に載りました。
素敵なショットをご覧になった方もあるでしょう。
その一枚は、ご主人の許可をいただければこちらに載せたいと思っています。
 
その後、裕子さんはご主人のお仕事の都合で京都にお引っ越しされましたが、彼女が滋賀で努力した成果は、確実に結実しています。
裕子さんのボランティア活動が、あちこちの媒体で取りあげられると、センターへの問い合わせも来るようになり、ついにセンターが一般からボランティアを公募するのにプラスして、子犬に加えて成犬の譲渡、猫の譲渡もされるようになったのです。

たった一人の力で、何ができる?
大したことなど、出来るはずがない?

裕子さんは、たった一人で、本当に自分一人きりのスタートで、こんなにすごいことを成し遂げててしまった。

彼女は非常に奥ゆかしい人でもありました。
こうした事柄は、私は別の方から聞かされるのです。

ですから、このたびの事故で、いろいろな方たちの書き込みを見、みなさんとの交流、活動など初めて知ったことも少なくありませんでした。

私へのメールは、いつも宛先が「憧れの眞子さん」となっていました。
きっと、そういうふうにアドレス帳に登録していたのですね。

毎回「やめてよぉぉぉ」と思っていました。
本文の最後には、よく、
「私たちは眞子さんの応援団です。いつも、応援しています!」
と、ありました。

それを読むと、くすぐったいのと同時にシャキーンとしました。
そして、私こそ裕子さんの一番の応援団だと自負していました。

   ***

6月25日の朝9時過ぎ。
幾つかのメールに返信を書いている最中に、なんとなく到着メールのチェックをしたら、一つ届いていました。

差出人は裕子さんですが、内容が解らない。
なんだろう、なんのことだろう、何を言っているんだろう……。

「田中裕子の夫です」と名乗る人が、書いています。
「昨夜6時ころ、散歩中にベイが流れて助けようとし、自分が違う世界に行ってしまいました」、とあります。
 
全然、まったく、理解できません。
え? え? と、20回は読み返しました。

間違いに違いない。
そんなはずないもの。

震える指で、受話器を取りました。
ご主人がでられました。

しばらくはお互いに、声になりません。
「嘘だと言ってください」と、お願いしながら、座り込んでしまいました。

その後、裕子さんが所属していた京都府の愛玩動物飼養管理士のお仲間に連絡を取ると、
「同姓同名の人だと思うので、調べている最中です」
との答え。

私は、彼女たちに最悪の知らせをする羽目になってしまいました。
その電話を切ると、またしても心臓が掴まれるようで、やはり掲示板の初期から裕子さんと一緒にやりとりのあった、たまさんにお電話していました。

動転する私の言う内容を、彼女もすぐには把握できなかったようです。
たまさん、ごめんね。

   ***

お通夜のあとに、ご遺族の方々とお目にかかりました。
ご主人から、裕子さんがいつも私のことを言っていたので連絡させて貰いましたと伺ったとき、私は崩れ落ちそうでした。
 
……いつも応援しています……
この言葉は、純粋にそのままの、そういう意味だった。
私は、それに見合う人間でなどないのに。

今となっては詮無いのですが、悔やまれることがあります。
一昨年だったか、高槻市での講演を依頼されていました。

京都駅から乗りかえるので、早い時間に東京を出発すれば京都で裕子さんとランチ出来ると思ったものの、日々の忙しさに紛れて連絡するのがどんどん遅れ、そのころ体調もすぐれなかったこともあり、結局そのままになってしまいました。

あのとき、会っておきたかった。
無理を押してでも、会うべきだった。
いくら心に思っても、実行しなければ何も思わないのと同じです。

裕子さんは、まるで眠っているようでした。
揺り起こせば、今にも目を開きそうでした。

目を開いて、はにかんだ笑顔を浮かべるのではと、じっと見つめました。
とても美しいお顔でした。

以下は、告別式に伺った裕子さんのお友だちからのご報告です。
これは、裕子さんのご主人のお言葉です。

・・・・・・

眞子さんの掲示板で、いろいろな書き込みがあり、裕子のことが、犬を助けた勇敢な人、みたいに美化されて書かれてある。
みなさんが、今後も活動を続けていかれるならぜひ、伝えて欲しいんです。

今回のことは、裕子の判断ミスが引き起こしたことで、絶対にしてはいけないことなんです。
実際、ラブラドールが溺れて流されかけるなんてことは、ないだろうし、状況判断の甘さが引き起こしたことだ。
やっぱり、きちんと状況を見て、行動をしないといけない。

私は、スキューバをしてるんですが、その講習のときに一番に習うことは、救命胴衣を着けていない状況のときに溺れている人を助けに行ってはいけない、と習うんです。

皆さんの今後の活動の中で、今回のような事故が二度と起こらないように、ノーリードでの散歩のことや今回の事故のことを、伝えていって欲しい

・・・・・・

告別式には、近県の動物保護管理センターからも弔電やお花が届いたそうです。
掲示板で交流のあった方々も何人か参列されましたし、その何十倍もの人々が遠くの空からご冥福をお祈りしたことと思います。

動物に関わる問題を扱う掲示板を続けてゆくのは難しいです。
ここは平和にやってきたほうだと思いますが、それでも自分勝手な人はいます。

そんな中で、めげることをしない裕子さんはいつも前向きでしたが私はホトホト疲れ、一時的に閉鎖していた時間が長くなると、もうこのままでいいような気がしてきました。

それが、裕子さんの訃報をお知らせするために掲示板を再開出来ませんかと、やはり初期の読者の一人からメールが来て、急きょ開くことになりました。

彼女が好きでいてくれていた、閉鎖を悲しがってくれた掲示板を、こうした形で再スタートすることになろうとは、皮肉なものです。

今にも裕子さんからの書き込みがあるのではと、つい思ってしまいます。
「眞子さん! 待ってました! また始まるって信じてましたっ!」って。

そして、例の調子の書き込みの途中に、「へへっ」って。
音符やお星様やハートのマークを、いっぱいつけて。
そんなことありはしないのに、でも待ってしまいます。

インターネットは仮想空間で、顔も本名も知らない人同士の交わりです。
けれど三年半続けてきたこの場所で、かけがえのない方たちとの出逢いを受けとることとなりました。

裕子さんの訃報を心から悲しむ方々の声、そして遠方からも、お仕事をお休みしても、最後のお別れに駆けつけたご報告をいただいて、彼女の保護猫の里親を責任持って捜しますと言っていただいて、ここは温かな血の流れる人間同士が集う場であったのだと実感しています。

一時的に閉鎖をすると告げたとき、ある人は、こう言ってくれました。
「この場所でたくさんの出会いをもらました。きっと一生続くであろう出会いですよ!
このトシですごいねえ!」

一生続くであろう出会いとは、いくつになってもすごいことです。
裕子さんは若くして旅立たれましたが、彼女を知る人が生きている限り、「彼女との出逢い」は続きます。
 
お通夜の席で、ご主人とお母様、ご家族の皆さんに私はお約束しました。
私が生きている限り、裕子さんのことは決して忘れません。
それは掲示板で交流していた方たち、皆さん同じ気持ちです、と。

動物問題に関わることで悲しいとき、嬉しいとき、悩んだとき、私たちはきっと裕子さんを思いだします。

そうすることで、ずっと一緒に歩いてゆけると信じています。
田中裕子という一人の女性のこと、彼女から教わった「笑顔の力」、忘れません。

ありがとう。
私は、あなたが大好きです。

2003年7月1日 
感謝をこめて
渡辺眞子


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