コラム <体温あるコミュニケーションを>
言葉は諸刃の刃である。人を救い慰めもするし、深く傷つける。だから心して使わなければいけないのに、そのことが今ほど置き去りにされている時代はないように思える。伝達方法が多様化、簡素化した現代、話し言葉つまり相手との直接対話がおざなりにされがちなのも大きな要因であろう。
電車やバスなどで隣に乗り合わせた学生たちの会話を聞くともなしに聞いていると、もちろん貧困な語彙や豊富な造語もだが、なにより話し方が気になって仕方ない。ひと言ひと言を放り投げるような、ぶつけるような険のある口調に、びっくりして思わず顔を見てしまうのは私だけで当の本人たちは平然と話し続けているのだから、彼らにとっては、どうやらそれが普通らしい。しかし少なくとも私は、あんな喋り方をしてこなかったし、あれが自分に向けられた言葉なら心地悪い。
最近の話し言葉が大きく変容を遂げたのは、少年少女たちがポケットベルを持ち始め、交わす言葉が符号と化したころからだと思う。時をおかずしてベルは携帯電話へと急速に移行し、今やこのコンパクトな必携ツールなしには生きていけないと言う若い世代は外出する際、お財布を忘れても携帯電話は決して忘れることはないそうだ。すぐに会える相手にも、信号待ちのあいだも手のひらの小さな画面に顔をくっつけるようにしながら、忙しく指を動かして文字を送る彼ら。その様子は、私のようなアナログ人間からは呪縛を受けた姿にも見える。
パソコンが普及し、簡潔なメールの文で大抵のやりとりは成立するようになった。電子メールは実際とても便利で私も大いに利用はするものの、ここだけに頼ってしまう懸念も同時にある。画面に羅列して映る文字には、抑揚もニュアンスもない。行間というものが汲みとれない。これでつながる関係を、そのままコミュニケーションすべてだと思いこむのは、あまりに淋しい。その感覚に慣れすぎてしまうと、生身の人間を前にしても心のこもらない空洞化した会話をし、またそれに違和感を感じなくなるのではないかと思えてくる。私が気になる話し方をする若者たちも、この部分が麻痺しているのではないだろうかと。
多岐にわたる情報を瞬時に届けてくれるインターネットは素晴らしい。けれど、やはり実体験に勝るものはない。ITは本物の花の香りを運ばないし、私たちに風を感じさせることもできない。同じように、シュミレーションで温度のある人間関係を育めはしない。目の前の一人を大切に思うことーーそこから始まれば、言葉にも自然と思いやりが加味されるはずだ。嬉しかったり痛かったり、自らの心がうずくときメールやチャットではなく直に、親愛なる人に伝えたいものだ。
教育新聞 平成13年1月22日 掲載