身内が子犬を迎えたので、お留守番に行ったときのことです。おやつにサツマイモを蒸かしている私の足許から、子犬が急かすように見上げ、遠慮がちな声で催促しました。その姿に、思わず涙が溢れました。今は亡き私の大事な大事な犬たちと、まったく同じ仕草だったからです。
 一緒に暮らした動物の死。それがどのようなことなのか、どれほどの痛みと悲しみと苦しみをもたらすものか、私は十二分に知っているつもりでいました。けれど、慣れることなど決してないし、自分自身が年をとるごとにつらさは一層増すようです。人は生きているうちに様々な経験を重ねて、厳しい目にもたくさん遭っているはずなのに、ふしぎです。
 近年の動物医療はめざましい発展を遂げ、予防医学が発達し、感染症予防ワクチン接種は常識になってきました。動物病院の受診率が上がり、ペットの健康管理に気を配る飼い主が増えました。それらのおかげで、ペットの寿命はかつてよりも飛躍的に延びました。人とペットが一緒に過ごす時間が増し、とても強いつながりが結ばれるようになりました。それは素敵なことなのだけれど、ここでひとつの弊害も生じます。それは、心から愛したペットを見送らなくてはならないということです。
 犬や猫は7〜8才から老齢とされ、このころから睡眠時間が長くなり、徐々に耳や目、足腰が不自由になります。痴呆症状を見せるようになると昼夜逆転して夜半に啼いたり、徘徊したりすることもあります。ここまでになってしまうと世話は大変で、家族の負担も非常に大きいです。でも心が血を流すほど悲しいときがやがて訪れるのに比べれば、介護や看護ができるのは、まだまだ幸せなのです。
 心が通いあったペットは、かけがえのない存在です。その命がゆっくりと消えてゆく時間は、できるだけ家族で見守ってください。どんなに近代設備の整った清潔な病院よりも、慣れ親しんだ家で大好きな人たちに囲まれて過ごすほうを、ペットたちは望んでいます。病気が重く完治の見込みがない場合、痛みをおさえられない場合は、安楽死という選択についても家族で話しあっていただきたいと思います。尊厳ある平和な死を選ぶのも、飼い主が示すことのできる愛情です。
 本物の悲しみは、そう易々と癒されるものではありません。でも自分の身体をえぐり取られるようなものなのですから、そうは簡単に癒されるはずもありません。けれど、いつか立ちなおらなくてはなりません。しっかり泣いて十分悲しんで、ゆっくりと立ちあがっていただきたいと思います。
 その一頭に出逢ったことも、共に暮らしたことも、失った悲しみさえ、一緒に暮らした幸せの一部分なのです。彼らの姿はなくなってしまっても、生きていたころよりも近くで、深いところで、いつもいつも一緒なのです。ペットの死は絶望的な喪失ではあるけれど、その痛みは、それほど愛する相手にめぐり逢えたという幸福の証でもあるのです。